私の台所
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第五回三代続く台所で育まれしもの料理家・きじまりゅうたさん

いきいきとした素材をおいしい食事に変える台所。そんな魔法のようなスペースを、食や料理にまつわるプロフェッショナルはどうデザインし、
どんな風に使っているのでしょう。そこにある道具や収納、使い方は……?さまざまなプロフェッショナルの台所を巡ります。

Profile

きじまりゅうたさん
1981年東京都出身。祖母・村上昭子、母・杵島直美と3代続く料理家の家に生まれ育つ。幼少時から調理に親しみ、祖母や母の薫陶を受け、多彩な家庭料理を学ぶも、大学卒業後はいったんアパレルメーカーに勤務。その後、24歳で料理の道へ。料理初心者~中級者のリアルな目線と道具でつくる、一本芯の通ったアイデアメニューが雑誌や料理サイトで人気を博す。趣味はサーフィンと音楽鑑賞。

祖母は料理家の草分け村上昭子さん、母も料理家の杵島直美さん。そんな家系に生まれた三代目料理家のきじまりゅうたさんが、初めて目にした家の台所は、普通の家庭の倍ほども横に長い、祖母と母の“職場”でもあった。

「ちょうど僕が生まれる直前、いまから43年前に建物を建て増ししてこの台所ができたんです。左右対称に洗い場、作業台、コンロが対になる形。当時の料理撮影は数名のアシスタントさんがずらり並んで煮て、切って、洗い物をする。終了後はスタッフみんなでダイニングを囲んで試食会兼食事会。それが日常でした」

祖母と母の職場は、まだ幼かったきじまさんが初めて料理を作った家庭の台所でもあった。物心ついた頃の遊びは、にんじんの切れ端やきゅうりのヘタを渡されての切りもの遊び。4~5歳の頃に初めて鍋を持ち、小学校に上がる頃には中華鍋で卵を1パック使った卵焼きを焼けるようになっていた。きじま少年はずっと台所が好きだった。

「家業を継ぐ」ことは継ぐ者にとっては抵抗感がつきまとう。その荷は重く、無用な比較もされる。中高生の頃にはきじまさんも料理を職業にすることに現実感はなかった。躊躇や逡巡もしたが、思春期を抜けた大学生の頃には食を仕事にすることに前向きになっていた。

「ところが社会に出る前、祖母に料理の道へ進みたいと相談したら猛反対されたんです。にべもなかった。だからもうひとつ興味のあったアパレル企業に就職したんですが、ほどなく祖母が亡くなって……。葬儀の席で祖母と親しかった方から『本当はあんたに料理をやってもらいたかったのよ』と聞いて、もう一度自分の人生を見つめ直したんです。何度考えても、選択肢は料理しか残りませんでした」

会社を退職し、母・杵島直美さんのアシスタントとして料理家の修業を始めた。現場は楽しかったが、実入りは少ない。レシピや原稿の執筆は料理家本人の仕事で、アシスタントとしてできることもさほどなかった。

まわりを見れば同世代がネットやテレビで話題になっていた。募る焦燥と羨望。だが母にたしなめられた。「実力が伴わないうちに世に出ても生き残れない」と。

はやる気持ちを抑え、ひたすら修業に打ち込んだ。実家の台所では祖母や母のレシピを咀しゃくし直し、夜は調理専門学校へ通った。空き時間は居酒屋で働いて飲食店の仕事を体で覚えた。

4年間の修業期間を経て、知識と経験という蓄積を得たきじまさんの視界は広がっていた。

「祖母や母の料理の意味と理屈が明快に説明できるようになりました。現代に即した形で手順を整理した、僕なりの料理やレシピへの手がかりをつかむことができたんです」

きじまさんの料理は祖母や母の味も継承しつつ、これから台所に立つ人にも作りやすい家庭料理だ。料理の骨格が定まり、レシピにも背骨が通った。

そうして台所自体も徐々に三代目となるきじまさんへと継がれていく。

近所に住まいを借り、実家の台所を仕事用にリノベーション。祖母や母より身長が高い分、コンロやワークトップを10cmほど高くした。壁はほとんどを撮影に適した白のタイルに貼り替えた。一方、祖母が選んだ黄色のタイルも一面だけ残すことにした。

「道具は現代の一般家庭で入手しやすく、使いやすいものを使うように心がけています。祖母のは雪平やアルマイトの鍋が当たり前でしたが、母の頃からはフライパンや鍋は樹脂加工になりましたし、僕はヘラなども黒の樹脂製を使っています」

祖母の代から変わらない道具もたくさんある。

「ボウルやザルはほぼそのまま使っています。竹製の盆ザルなんて、買ったことがありません。大きな飯台は大人数のパーティなどのちらし寿司には欠かせない。酢飯の水分をちょうどよく吸ってくれる、替えの効かない道具だと思います」

昔の台所道具を知り、現代のキッチンツールを駆使して、初心者の目線にも合わせて料理やレシピを提案する。きじまさんは「僕の土台はすべてこの台所にある」と言う。この台所で注がれた惜しみない愛情は、“いま”を生きる人にやさしい料理を育み続ける。

梅干し
数年前、容器を入れ替えた時点で「50年前の梅干しって書かれていても、いつを起点に50年前だかわからない」と苦笑いする数十年もの以上の梅干し。「ひもつきの一番大きな盆ザルは梅を干すためのもの。祖母は2階の広大なバルコニーで毎年100kgくらいの梅を漬けていた」
まな板
「個人として、本当は木のまな板が好き」ではありつつ、撮影では樹脂製のまな板を求められることもあるので、素材や色違いのさまざまな形状のまな板が揃っている。
飯台
『村上』と記名したガムテープが貼られた飯台。近くの商店街の呉服屋の三女だった祖母は毎年秋の祭に向けて1週間前から仕事を休み、この飯台に煮しめや漬け物、ちらし寿司など盛って振る舞っていた。全10台。

家電のデザイナーが
プロの台所から学んだこと

三菱電機統合デザイン研究所石田健治
料理研究家への道と同じように、お祖母さまが作り、お母さま、きじまさんへと三代にわたって受け継がれてきた台所は、システムキッチンを2台連結した大きく、広く、そして大変機能性に優れたものでした。調理の際、アシスタントやご自身が無駄なく動くことが想定されていて、年季の入った鍋やザル、まな板などがところ狭しと並ぶ光景は圧巻でした。三代にわたって使われ続ける道具もあり、それらは耐久性だけでなく、使い勝手も良さそうなものばかり。私たちが世に送り出していく家電も、あの台所にあった道具たちのように耐久性や使い勝手をさらに高めて、親から子へと受け継がれるようなモノにできないだろうか? そんな思いを胸に帰路につきました。

構成・文/松浦達也 撮影/吉澤健太
2024.05.09